2021年3月17日(第24回)

人間が漫画や映画、舞台、音楽といった創作物によって「救われる」ことがある。私にはそれに対する強い忌避感がある。
理由は、その「救い」が本当に「救い」なのか疑わしいからだ。
満たされない、傷ついた(傷つけられた)人間が創作物によって心の平穏を得るのは確かに良いことではある。自分のおかれている現状を理解する知識を得るためにも、創作物はある程度有効だとも思う。ただ、それだけでは根本的な解決にはなっていないのではないだろうか。
救いを必要とする人間は、つまりそれだけ満たされていない状態ということだ。現状が満ち足りていれば救われる必要はない。人が満たされないのには原因がある。それはたとえば肉体的・精神的ハンデであったり、社会にある不当な抑圧や差別構造であったりする。そういった状況を打開するのは、創作物ではなく福祉の領域ではないだろうか。私は、創作物による「救い」はあくまで応急処置であり、恒久的な救いたりえないと考える。
この感情の出どころは、憧れの裏返しかもしれない。創作物によって傷ついた心が癒された、「救われた」というのは、単純に物語として美しいからだ。実際そういう物語は探せばいくらでもある。そういった美しい物語の中心にいられるのは、これは当事者の苦しみをまったく無視した感情だが、傍目から見ていると羨ましいとさえ思う。しかしまあ、実際「救い」が必要になるほど虐げられたくはない。だから私は映画を観ても絶対泣いてやるものか、音楽を聴いて「これは私だ」などと思ってやるものか、と考えながら生きている。
こうして書き出してみると、ただ私がひねくれものなだけではないのか?ともかく、私はこんなことを考えている、という話である。実際に創作物によって「救われた」と感じたことがある人を否定する気はもちろんない。「救い」にもさまざまなケースがあるから私の考えが当てはまらない場合も多いだろう。ただ、なにごとも一つの要因ですべての問題が解決することは少ないだろうなと思う。
絵の練習について。モルフォ人体デッサンミニシリーズは昨日「はじめに」を終え、デッサン集というパートに入った。文字通り人体のデッサンがパーツごとに多数収録されているのだが、とたんに何をどう参考にしていいのかわからなくなった。おそらく、文章での説明が少なくなったからだと思う。私は文字が主体としてあるほうがものを理解しやすいらしい。
今日はこれで終わり。久々に1000字を超えた。慣れない考え事をしすぎて眼とタイピングする手が痛い。